庭園都市計画のすすめ

2010.03.19
第二巻 湖水地方自然博物館

鄙びた田舎町にある、何の変哲もない小さな神社に、樹齢千年以上と言われる楠の樹がある。伊豆の河津という、温泉で知られた町である。私は子供の頃毎夏を母の故郷で過ごし、その日々はいつも、その大樹の存在に魅せられていた。目くるめく心の鼓動で満たされて、畏怖という言葉の意味を身につけたのも、この夏の日々だ。叩きつける真夏の太陽の熱射から逃がれ、鎮守の森をさまよう小刻みな呼吸は、生きる幸福そのものであった。鳥の声は絶えることがなく、時に現れる猿の姿におびえると、「夜半にはハクビシンや猪が森の中を徘徊するのだ」と祖父が語った。夜明けの黎明の静寂に、森全体を震わせて、蝉が一斉に鳴き始める音を聞いた記憶。大気に夏の香が流れる初春になると、いつも思い出す、あの、むせるような森の吐息。巨大なブロッコリーの形で大地に伏せる照葉樹の森。思い起こすたびに、世界に感謝をささげたくなる、あの「景色」・・・
人は誰もが皆、愛する景色を心に秘めて、人生の道程を生きているのではないか。つらく悲しいときにも、その景色を心に蘇らせて、遠く焦点の定まらぬ、あの無垢なまなざしを取り戻すのではないか。そしてその景色はいつも、自然という神秘の世界に結びついている。人の世はひたすらに移ろいゆくけれども、自然世界は、変わらぬ姿をその土地に秘めているのだ。

景色というものは、それぞれの民族や部族の情熱の果実で、その果実を食べた世代の記憶として人生の時間の中に蓄積される。
イタリアは、都市 から自然を駆逐し、その代わりに、都市を逃れて郊外に赴けば、見事に成熟した中世の田園が今もそのまま息づいている。
英国は、産業革命以後荒廃し スラム化した都市に新しい価値を与えるために、庭園と名づけた住宅地開発が流行した。膨張する都市に歯止めをかけるために、グリーンベルトを発明し、都市 と田園が相互に補完しあって生活圏として完結する、田園都市論も生んだ。
インディアンの焼畑によって劣化する過程にあった米国の大地では、かの人 々は金と快楽を追求する都市の夢を謳歌し、パークシステムで都市をつなぎ、ニューヨークにはセントラルパークを創造し、近くは、ボストンでウォーターフロ ント開発の先陣を切った。

では、わが日本は、集住する人間と自然の関係を、どのように捉えて景色を作ってきたのか。戦後日本に新しく作られてきた 景色は、幼き子供たちに、人生を生きる糧となる、豊かな果実であっただろうか。その一生を支えるに足る甘美な自然とのランデヴーの思い出を、差し出してあ げることはできたのか。干からびてはいないか。歯が立たぬ鎧の皮膚をまとってはいないか。あるいは、働いて、働いて、働いた末に、人として人生を完結しよ うと願う人々が、豊饒なる感慨を抱いて、安心して深く眠ることを望む土地の景色を、築くことはできたのであろうか。

私は経済の出身だが、慶応義塾の自由な校風に涵養されて、文学・芸術から数学・宇宙物理学まで、ひたすら意欲の赴くままに渉猟して歩いた。その結果だろう か、映画美術のプロデューサーとして世に出て、その後米国と英国に縁をいただき、映画の企画、脚本、監督、プロデューサーとして猪突猛進した。そのおかげ で旅をする機会が多く、世界先進各国のインフラの豊かさに圧倒されては、日本に戻るたびに、深刻に落胆した。新しい町づくりにも、西洋の技術移入ばかりが 幅を利かせている。日本在来の思想に対する問いかけが必要なのではないかと煩悶したのだ。幸い内外で、建築家、構造設計家、造園学者との深い交流があっ た。足元を見つめなおし、バブル経済隆盛のさなかに、都市計画の仕事に舵を切ったのは、三十代半ばのことである。
映像も都市計画も、人が生きる物語の景色を作る仕事だ。工程は酷似していたし、積み上げてきた物語作法は深く機能し、各方面の専門家や芸術家、職人を組織 して演出する職能は、得がたい資質として役に立つ。専門的な素養の勉強は、時間の中で消化すれば良かった。だが、この手の転身には、簡単には整理しきれな い難しい問題が山積されていた。縁あって鎌倉の富士和教会を頼り、心がけの指導を仰ぎ、人としての基本的な考え方、この世の道理の詳細について、一つずつ 間違いのない教えを受けた。この世には掟がある。人間を含む、大自然を支配する規範がある。この一つ一つを身につけたことが、私の人生の礎を築いた。

旅をしていて美しいと思う景色には、その地で暮らす人々の、謙虚で欲の無い人柄が感じられる。胸を打つ景色には、人の作為が感じられないのだ。素直で無心 であることが尊く、それを私たちは、「自然」と呼んできた。ところが戦後、日本が築いてきた景色には、なんと「自然」が乏しいことか!
それは、建築が暴走したせいだと言う人がいる。建築が宿命的に宿しているのは、「内向する」性質である。重力に抗して棟を上げる作業は、神聖ですらあっ て、その陰翳に満ちた空間で、人は身づくろいをし、病みかけた心に休み処を与えるのだ。だが、現代の技術革新と、戦後日本における近代建築の独走は、世界 との関係を絶ってしまう。その結果、ついに過剰な設備を装備して周囲の環境から身を閉ざし、人から、この世の摂理につながる豊かなる回路を奪い取ってはい ないか。人間の可能性を矮小化したのではないだろうか。内向の過剰は、引きこもりの病ではなかったか。内向は、往々に抑制がきかず、暴走する。人間のこと が大切なのに人間のことを思わず、建築の快楽の中で、あるいは建築自らの都合で自己完結してしまう。この性向を制御する方法が必要だ。私は、建築の研究を 重ねながら、「建築都市計画」では、現代の設問は解けないのではないかと自問していた。
「庭園都市計画」・・・そう考えたのは、その自問に対する解である。庭園は自然によって律せられる。庭園都市計画は、自然と人間の関係を主軸にして暮らし の場を計画する方法である。必ずしも目に見える自然環境だけを課題にしている訳ではない。人間を含む大自然の道理に適うことを第一に計画する。小さな集落 や住宅地開発、集合住宅、商業施設の計画のほかに、各地の自治体やNPO法人から、町づくりについての相談を受ける。茶人による茶会のための山里。サマー ハウスを取り囲む病院の庭園計画。個人邸も数多い。畑、建築物、設備、外構、公園、露地・・・人間が暮らす宇宙全体を満たす庭園の言語を駆使して、場所の 全体を計画するのである。その計画は、感傷ではなく、憂愁でもなく、未来に向かって投げかけた希望でなければならない。古今東西の温故知新も必要だ。旅の 記録は、「庭の旅」(TOTO出版)にまとめた。

最近、二つの大きな学習をした。
一つは、国土交通省が十年以上の研究期間を経て設定した、環境共生住宅認定への挑戦である。現代建築の回路を環境に開き、世界に結びつけるための最先端の 思想を総ざらいしたのだ。エネルギー、資源、地域環境、植物学、建築学など、それぞれの分野の最高峰の学者たちとの直接間接の対話もあった。ドイツの建築 生態学にも深いかかわりを得た。途方も無い課題に、何とかして輪郭と方法を見出そうという挑戦である。
もう一つは、潜在自然植生という概念の発見である。これは、植物生態学者宮脇昭氏が生涯を費やして研究を重ね、日本では1970年代にはすでに企業社会に も流布していた概念であるが、私がこの知恵に本格的に耳を傾けたのはごく最近、それも東京農大の濱野周泰先生から教えを受けたのがきっかけである。砂漠の ような都会にも、人間が消えてしまえば数百年して蘇る森がある。関東地方の大部分は、人間が消えてしまえばシラカシの森に還るのだ。その土地固有の自然の 姿。人間が自然の産物なのであればこそ、私たちは、生まれ、属し、還る森の実相に無関心でいられる筈がないだろう。その植生を、潜在自然植生と考える。そ の知見の重要性を、年齢を重ねて深く思う。人間の「出自」に関する知見である。彼は、イロハモミジ-ケヤキ群集の生まれで、彼女はモチツツジ-コジイ群集 の、それも、シャシャンボ亜群集で育った、という具合に。
今や日本の国土の大半は自然植生に手を加え、二次林と呼ばれる代償植生に変化しているのだが、しかし、わずかに自然植生をありのままに残している場所があ るとすれば、それは鎮守の森だと言う。人は、本来の自然を記憶させておきたい森に神を祀り、あるいは神の顕現を感じた森を、その土地の本来のありようのま ま維持したのだ。それは、人間の活動に応じて、いつでも環境再生機能を果たすべくしてそこに維持されている。会うことのない遠い未来を生きる人々への、今 の私たちの義務。

私は、五十歳という年齢を迎えて、今改めてあの大楠を見上げている。少年の日の畏怖が、微かに、しかし確かに蘇ってくる。鎮守の森の外では、しょうぶ園が 観光客を集め、バラ園のポスターがそこここに張り散らされている。だが、この鎮守の森の中では、時間はまんじりともせず静止していた。
願わくは私は、個人名を冠せた「作品」よりも、遠い過去から果てしない未来へ続く人間の営為をつなぐ者として、暮らしの場の景色を作ることに砕身したい。 日本民族が蓄えた深い思索に倣って、自らの仕事の思想としたい。それが、人と人の間を生きる者としての務めなのだろう。道程はようやく端緒についたばかり だが、手ごたえはあると思うのである。

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