モナリザが海を渡り 世界に解き放たれた日

2017.09.02
第五巻 千旅万花

その子猫は生まれつき足が骨折していたようで、我が家にきた際に獣医に手術させたが、やはり不自由だった。それで「モナリザ」と名づけた。一説によれば、ダ・ヴィンチの「ヴェールを被ったフィレンツェの娼婦」は、足が不自由だったからだ。赤ん坊で捨てられて恐ろしい目に会ったらしく、外に出すと怯えたので、室内で飼った。

僕達がロンドンへ転居する時、モナリザは雄猫の吉右衛門と一緒に英国にやってきた。六ヶ月の検疫所暮らしで吉右衛門が病死し、晩春の日の午後、この猫だけが妻に連れられて、ロンドンのチェルシー地区に借りた我が家にやってきた。さっそく庭に放たれた子猫は、ニュルンベルグの広場に立ち尽くすカスパー・ハウザーさながら、呆けたようにしばらく動かなかった。が、たちまち好奇心の虜になって、潅木の茂みに消えて帰らなかった。 モナリザが放たれた日のサムネール画像のサムネール画像

夜半、窓外のテラスでホッホーと鳴いた。フランス窓をあけてやると、駆け込んでソファの上に仰向けとなり、遠く夢見るような眼差しのまま激しい息をした。はじめて見る外の世界は、新しく魅惑的だったに違いない。

夏に田園のコテージへ旅した時には、輝く鹿のように跳ねて朝靄の草原に消えたきり、ついに数日帰らなかった。この時この猫は決心したのだと思われた。ロンドンに帰ってから、一緒に都心の新居に引っ越したモナリザは何度も家出を繰り返し、何週間もたってから、みすぼらしい姿で発見された。その瞳は、田園の草原を夢見ていた。

だから僕達夫婦は英国を離れる際に、この猫の意思を尊重して英国への帰化を許した。その後風の噂によると、モナリザは田舎の良家にもらわれ、その土地の女王に君臨して幸福な数年を過したのだと言う。


 

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