水牛イッコーさんの死
- 配信日
- 2018.04.25
- 記事カテゴリー:
- 第一巻 湖水地方レポート
1頭の水牛の死に対して、こんなにセンチメンタルな気持ちになるとは、夢にも思わなかった。
平成27年春、今からちょうど3年前に、計10頭のイタリア水牛群が豪州から到着した。まだ若いが、胎には子を宿した9頭のメスと、種牛のF37だ。「君たち、学習院小学校の子なの?」と聞きたくなるくらいお行儀が良くて、華々しい思いで迎えたことを今も思い出す。
その中にいたF15/イッコーさんが、昨日、死んだ。
昨年の春の分娩後に膣脱が見つかり、管理獣医師の山口先生に頼んで、縫合してもらった。繁殖は難しいと聞いていたが、種牛が種をつけて、今年の春も分娩した。膣脱は一度すると癖になると山口先生から聞いていたが、今年の分娩の1か月ほど前から、すでに膣脱を繰り返していた。
山口先生がガンで急逝し、走り回った結果、念願の農業共済組合の獣医師で所長の小林牧人さんが決心してくださり、「湖水地方牧場の水牛の面倒を見る」と約束してくれた。小林先生は、「分娩したら縫合しましょう」とおっしゃった。
ある日、私が留守の間に、イッコーさんが分娩を始めたことに妻が気づき、その時に、牧草ロールを運んで来てくれた、隣の酪農家高橋和彦さんが、出られずに膣に引っかかっていた仔牛を引っ張り出してくれた。仔牛はとても大きく、死産だった。イッコーさんがひどく衰弱していて、高橋さんは、「母親は死ぬのではないか。獣医を呼んだ方が良い」と言った。
小林さんはさっそく来てくださって、縫合。しかし、イッコーさんは、翌日には糸を切ってしまい、膣脱はさらにひどくなった。カラスが集まって、はみ出した膣を狙った。肉牛として肥育するにも、この状態ではもたない。水牛は、肉牛としての出口も、まだ確立していない。繁殖の可能性はもはや消えた。行き先がなくなった。ぼろぼろになったF15は哀れだった。私たちは搾乳することもやめた。体力を消耗するからだ。時々搾乳所にやってくると、配合飼料をやった。
この数日、搾乳所にも現れずにパドックに横たわっていたが、一昨日の搾乳時、イッコーさんは意を決したように、私の静止を静かに振り切って搾乳所にやってきた。水牛の搾乳が終わり、全頭がパドックに戻ったあとになっても、いつまでも待機場にとどまり、妻は何度も配合飼料をやった。通常は、水牛に続けてブラウンスイスの搾乳をするのだが、イッコーさんのその雰囲気に押されて、ミルカーポンプを停止し、私たちは長い間、イッコーさんを見守った。ずいぶん食べた後、私が促すと、イッコーさんは納得したようにパドックに戻っていった。その後ろ姿を追いながら、私はイッコーさんの安楽死を心に決めた。
だがその翌日の昨日、午後の搾乳時間の前になって、イッコーさんは、草架の脇のほし草の上に横たわり、何度か吠え声をあげ、その後、ひっそりと動かなくなった。私が手を下すこともない、自然死だ。
死体は今日、処理業者に引き渡した。生き物と暮らす、ということが、命に関する教育の機会をくれた。夕方、イッコーさんの命を思い、黙って乾杯をした。